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大久保ダム (長野県) : ウィキペディア日本語版
大久保ダム (長野県)[おおくぼだむ]

大久保ダム(おおくぼダム)は、長野県駒ヶ根市上伊那郡宮田村との境、一級河川天竜川水系天竜川に建設されたダム大久保えん堤(おおくぼえんてい、大久保堰堤)ともいう。高さ3.488メートルの重力式コンクリートダム)で、中部電力発電用ダムである。同社の水力発電所・大久保発電所に送し、最大1,500キロワットの電力を発生する。
== 歴史 ==
1926年大正15年)3月5日に発足した天竜川電力代表取締役大同電力福澤桃介)は、第一次世界大戦後の電力不足を背景に、天竜川の水資源を活用した水力発電所の開発を計画していた事業者らが合同で設立した電力会社である〔「伊那谷の電源開発史」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』14ページ)より。〕〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』70ページ)より。〕。天竜川本流に9つの水力発電所を建設することが計画され、まず最上流の大久保発電所の建設工事が同年11月に着工〔「伊那谷の電源開発史」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』15、16ページ)より。〕。1927年昭和2年)9月に完成した〔「伊那谷の電源開発史」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』16ページ)より。〕。その後、矢作水力日本発送電を経て、中部電力が継承〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』72ページ)より。〕。1966年(昭和41年)には無人化されている〔。
大久保発電所の目的は、のちに着手する南向(みなかた)発電所の建設工事に必要とする電力を確保することであった〔。当初は現在の地点よりも下流に建設される計画であったが、地元地域への配慮から立地を変更し、それに伴って出力規模も縮小されている〔。取水先の大久保ダムは洪水吐として3門のローリングゲートを採用〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』74ページ)より。〕。1門あたり高さ3.353メートル、幅26.192メートル〔「大久保発電所大久保えん堤洪水吐ゲートの異常作動について(別紙)」より(2012年3月17日閲覧)。〕、重さは72トンもあり、急な増水によりゲート上を水があふれるようなことがあっても簡単には決壊しない〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』74、75ページ)より。〕。洪水予測が未熟な当時ならではの選定であった〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』75ページ)より。〕。
低落差・大流量地点ということで、発電用水車電業社原動機製作所製の横軸4輪単流露出双子フランシス水車を採用〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』71ページ)より。〕。4輪のフランシス水車が連結され、長さは27メートルもあった〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』72、73ページ)より。〕。当時すでに低落差・大流量地点に特化した発電用水車としてカプラン水車が開発されていたにも関わらず、なぜあえて4輪のフランシス水車を採用したのか、詳しい経緯は不明である〔。完成当初は4輪すべての水車をフル稼働させていたが、のちに効率化のため渇水期は2輪だけを使って発電するといったことが行われている。初めは4輪・2輪の切り替えを手動で行っていたが、1980年(昭和55年)に自動化された。
発電機は芝浦製作所製の三相交流同期発電機を採用〔。で水車に直結され〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』73ページ)より。〕、136.4 min-1(50ヘルツ時)ないし163.6 min-1(60ヘルツ時)で回転する〔。44もの磁極を有し〔、直は4メートル、重さは25トンもあった〔。こうした低落差地点では水車発電機の大型化は避けられず、不経済だという弱点があった〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』72ページ)より。〕。1945年(昭和20年)と1956年(昭和31年)には主軸が折れるトラブルが発生したほか、1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけてはごみの流入が多いことから、4輪中2輪を外しての運転を余儀なくされた〔。
1997年平成9年)、水車発電機を一新〔。これまで直結されていた水車と発電機との間には増速機が設けられ、水車の回転速度125 min-1を720 min-1に増速して発電機に動力伝達する〔。これにより、新しい発電機は直径1.5メートル、重さ1.3トンと大幅な小型化・低コスト化を果たした〔。なお、退役した古い水車発電機は、駒ヶ根市にある駒ヶ根高原美術館に屋外展示・保存されている〔「大久保発電所の歴史と技術」(『シンポジウム「中部の電力のあゆみ」第12回 講演報告資料集』76ページ)より。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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